人を評価する話

人のことを評価するのが苦手だ。高評価というか、褒める方向に関してはいいんだけど、低い評価をするのはどうも苦手だ。
人以外においても、わりと同じようなことがいえる。本を評価するサイトでも映画を評価するサイトでも、基本的には低い評価を下していない。よっぽどつまらなかった作品に対しては低い評価をしているものの、だいたいが星5つのうち3つ以上である。

別に、日和っているつもりはない。つまらない物はつまらないし、ダメな人はダメだと思う。
ただ、僕は色々なことに気がついていない、気がつかながちである、ということを、わりと小さな頃に思ったのが、この性格の原因のひとつなのではないかと思っている。

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L君の話

小学校低学年の頃、同じクラスにL君という子がいた。
彼はなにかしらの障害を持っており(正確になにがあったのかはもう忘れてしまった)、座学の授業はだいたい半分くらい支援級に通っていた。

僕はL君と特段親しかったわけではないが、何度か複数人ではあるものの一緒に遊んだ記憶がある。
L君は虫が大好きであり、虫を探す勘に優れていた。虫好きの子供というのは独特の嗅覚があるんだと思うけど、彼は近所の虫がいる木をよく知っていたし、捕まえるのも上手かったのを覚えている。
僕も図鑑を眺めたりするのが好きだったけどそこまで虫好きというわけでもなく、当時からインドア派であったため、彼がひょいひょいと虫を捕まえるのをみて感心していた。

不思議な授業

そんな事情で、座学の授業ではL君がいないことはよくあったのだけど、その日は珍しく学級活動だかの時間にL君がいなかった。そして逆に支援級の先生がクラスに来ていたのだ。

支援級の先生は「今日は、L君についてお話に来ました」と切り出した。
もう15年も前の話なので、細かい言い回しなどについては忘れてしまったのだけど、L君には生まれつきの障害があること、それによってみんなと比べて苦手なことがあること、支援級ではそういうことについて練習をしていること。そんな話があったはずだ。

授業時間も終わりにさしかかった頃、支援級の先生が「L君と生活していて、なんか気づいたことはある?」と質問を投げかけてきた。
最初はポツポツと「ちょっと落ち着きがない」とか「勉強が苦手」とか、そんな声が上がっていた。しかし、意見が出されるごとにみんなの口調が徐々にヒートアップしていき、最終的には「片付けができない!」「そういえばあの時も!」「こういうことを言われた!」と我先に大声で発言するような状況になっていた。

僕はそれを見て、なんだか不思議な気持ちになっていた。別に「そんなムキにならなくても…」と冷静だったわけではない。
L君に関してみんなが指摘していることに、自分がまったく思い至っていなかったのだ。それにただただ驚いていた。
思い返せば、L君は確かに片付けが苦手だったのだと思う。心ない一言をいってしまうことも、二度三度はあったはずだ。だけど、僕はそれがL君に固有のことだと思ったことがなかったのだ。

片付けが苦手なことや、心ない言葉をいってしまうなんてことはよくある話だ。別に彼に限った話ではない。落ち着きがないというのも、多くの小学校低学年の男子に落ち着きがあるとは思わない。
「片付けが得意・不得意」「周りのことを考えて発言する・できない」「落ち着いている・落ち着きがない」というのは、連続的に、グラデーションのように、その人が位置する場所によって変わっていくものだと思う。
きっとみんなはそのグラデーションの中に、「ここからは非難されても仕方ない」という境界線がおぼろげにでも見えていたのだろう。
そのグラデーションのどこに境界線があるのか、その頃の僕はわかっていなかったし、今でもわからない。

みんなは気がついているけど、僕は気がついていない、そんな体験をして、僕はちょっとぼんやりしていたのだろう。先生がその授業をどうやって締めたのか、どうやって収拾をつけたのかはまったく思い出せない。

その出来事以来、僕は「気がつかない」人間だと自覚したのである。あれは一体なんだったのだろう。

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