一人称をなくしていた話

大辞林
いちにんしょう【一人称】
文法で人称の一。話し手(書き手)自身、また、話し手(書き手)自身を含む仲間全体をさす場合のもの。「私」「僕」「われ」「われわれ」などの代名詞についていう。自称。第一人称。
一人称(イチニンショウ)とは – コトバンク

僕は…という書き出しからわかるとおり、この文章を書いている、インターネット上で「廻間合」という名前を名乗る自分の一人称は「僕」である。
実感として、24歳男性で、一人称が「僕」としている人の割合というのは相当に少ない。ほぼ確実に10%を割っているだろう。5%もいないんじゃないか。おそらく世の中の大部分の同年代男性の一人称は「俺」である。

別に僕は奇をてらって「僕」という一人称を使い始めたのではない。ただ単に「俺」と言い出せなかったのだ。たまにふざけて「俺」と口に出してみることもあるのだけど、なんだか偉そうに感じてしまう。

そういえば、自分には一人称がなかった時期というのが相当長い間存在していた。
小学校の中学年くらいから、インターネットを始めて「僕」を使い始める高校生くらいの頃まで、自分には一人称がなかったのだ。

ことの始まりは幼稚園に通っていた頃だ。その頃僕は自分のことを、「名前の1文字目+ちゃん」で読んでいた。ハンドルネームにあてはめれば「ごーちゃん」とか、まあ、大体そんな感じだ。
たぶん、親だったり、周囲からそう呼ばれていたから、それをそのまま、自分のことを示す言葉として使っていたのだと思う。

そんなある日、幼稚園で友達と話しているとき、幼稚園の先生から「自分のことをごーちゃんって呼ぶのはおかしいよ。変えた方がいいよ」と指摘された。
その指摘は幼心に少なからずショックであった。自分が当たり前だと思っていたことがおかしくて、それは変えなければいけない。ずっと自分は話す度におかしなことを言っていたのか。

たしかに、小学生くらいになって自分のことをちゃん付けで呼んでいる人というのは、あまりいないように思う。先生だって「小学生になってもそれだと周りから変な目で見られちゃうんじゃないか」と心配していってくれたことだとは思うのだ。
ただ、その指摘をされて以降、話の中で自分のことを表現するのが極端に恥ずかしくなってしまったような気がする。

折しも小学校に上がるくらいの頃といえば、男子の一人称が「僕」から「俺」に変化していく時期だったりする。少なくとも自分の友達の間ではそんな時期で、「僕というのはダサい」「俺にしていくのがトレンド」のような空気感が少なからずあったと思う。
前述の通り「俺」という一人称に乗ることができなかった自分は、一人称というのがわからなくなってしまったのだ。

ただ、やはり一人称がないというのはかなり不便な話。小学校に上がり、幼いなりにいろいろと考えて「ウチ」という一人称を使い始めた。なぜか関西の女性風だ。
でも、やっぱり、その一人称もすぐに逆境に晒された。主に「ウチって使うの、女じゃん」という、小学生男子にありがちな「女子は敵、仲良くしてるやつは軟弱者」というあの流れに近いものだと思う。

おかしいと言われたことの回避策すらおかしいと言われてしまう。今よりもナイーブであった当時、結構悩んだことを覚えている。

結局のところ、僕は一人称をなくしてしまった。小学校中学年から高校生くらいまでの間だから、おそらく6年くらい、会話の中で自分のことを呼ばなくてはいけないときは、なんとか一人称を使わなくてもいいように話を組み立てていたと思う。不毛な労力だ。

とりあえず、現時点では一人称を手に入れることができた。のだけど、もしかしたら似たようなことで悩んでる人がいるんじゃ…と思っている。少なくとも自分の周りにはひとりもいなかったと思うけど。
まあ、広い広いインターネットには、もうひとりくらいはいるのかもしれない。別に一人称なんてなんでもいいのだよ。

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