なんだかいろんな意味で話題になっている、ホアキン・フェニックスのジョーカー第2弾「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(Joker: Folie à Deux)」を観に行ってきました。
前作は映画館で見逃してしまって、あとでサブスクで見て、ああ、映画館に観るべきだった…と後悔したものです。今回は公開後すぐに映画館に行きましたよ。進歩ですね。
日本公開前から賛否の声が上がっていた今作だけど、僕の感想としては「賛」である。
あらすじ
前作でジョーカーとして6名を殺害したことで逮捕され、精神病棟に収容されながら裁判を待つアーサー・フレック。病院内で行われていた音楽セラピーに参加していたリー・クインゼルから熱烈なアタックを受けて恋に落ちる。
裁判が始まるとジョーカーの担当弁護士は「アーサーは精神病で、辛い思いをしてきたからジョーカーという人格を作り出してしまった」という弁護を展開。苦々しく思うアーサー。そしてジョーカー信仰者達は解放を求めて運動を始める…
いい映画だと思うんですよね
今回のジョーカー:フォリ・ア・ドゥは、先んじて公開されたアメリカの映画レビューサイトで大酷評。批評家からも観客からも評価が低い…という情報が駆け巡るという、なかなかない状態で日本公開が始まるという、結構珍しい境遇の映画となった。
たしかに、漠然と思っていた「ハーレー・クインとジョーカーが協力して悪いことするんだろうな」という映画ではないのである。そしてなぜだかミュージカルシーンが盛りだくさんなのだ!
1作目と同じテンション感で映画館に行くと、急に作風変わった!!!となることは間違いない。
まあ、この辺りが評価が低くなってしまう要因だと思う。
この辺りからストーリーのネタバレをするのでまだの方はぜひとも先に観にいっていただきたい。
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は1作目を観てジョーカーのワナビーとなった人達に思いっきり冷や水を浴びせるための映画だったのではないかと思う。
1作目で「悪のカリスマ」に祭り上げられてしまったアーサー。これは作品内でもそうだし、現実世界でも「弱い立場の人間が無敵の人になる」といったジョーカーワナビーを生み出してしまった。
そういった人間にアーサーは「ジョーカーなんて存在しない、ただ注目して欲しくてやっただけ」と裁判で述懐する。
アーサーが演じているジョーカーの存在が揺らぐのは、1作目でアーサーの同僚の道化師だったゲイリーが裁判で証言台に立ち、抱えているトラウマについて語り、去り際に「優しかったのは君だけだった」と1作目でアーサーがゲイリーに語ったのと同じ言葉をかけるところからだ。
虐げられていた弱かった自分が、悪のカリスマとして行った行為はさらに誰かを虐げることに他ならなかったのだ。
そしてアーサーに熱烈に迫ってきたリー・クインゼルも、アーサーが本当にジョーカーの存在を否定するとあっさりと関係を絶ってしまう。
結局のところ、ジョーカーとして存在することで自分に注目が集まると考えたのに、信仰者達もリー・クインゼルも「ジョーカー」のことしか眼中になかったのだ。
そしてこれは映画を観ている観客側も同じである。ジョーカーなんだからこういう映画であるはずだ!と予想していたのが裏切られる。そのとき観客が見ていたのは「苦しい境遇で虐げられていたアーサー」ではなくて、「悪のカリスマとなったジョーカー」だったのだ。
裁判所から逃れてなんとかリーに会いに行くため、長い階段を登るアーサーは、1作目で踊りながら階段を降りていったジョーカーではなくなってしまったのだ。
1作目のラストでアーサーが思いついたジョークとは、一体なんだったんだろう。