一口サイズの感動がありあまる

勘違いしないでいただきたいのだけど、僕だって感動する話は嫌いなわけじゃない。
「これを見ると必ず泣ける」という映画もあるし、心温まるような落語の人情噺だって結構好きである。
かといって、「この夏最高に泣ける!」とか「全米が泣いた感動の物語」みたいな宣伝文句の映画を見に行こうとは思えない。「泣ける」「感動」「号泣」あたりをを前面に押し出されると鼻白むし、映画の歴史上、そんな映画がおもしろかった試しはないと考えている。泣ける意外に特筆すべきところがないんかい!と思う。

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世は大美談時代

一口サイズの感動

甲子園とオリンピック、規模も違えば出ている選手のレベルも違う。でも、このふたつのスポーツイベントは、両方とも毎回毎回ものすごく大々的に報じられる。
なんでこのふたつが大きく報道されるのかといえば、たぶん「一口サイズの感動」が満ちあふれているからだと思う。
両者とも自分とはほぼ関わりがない世界での、感動ストーリーに満ちあふれている。

アスリート同士の知られざる交流、マネージャーの献身、あと一歩で夢に届かなかった人…
そんな感動ストーリーを、テレビだったら1分ちょいに編集、SNS向けには【感動】と頭に付けて投稿する。
そんな一口サイズに切り取られた感動が受けるのだ*1

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こういったちょっとした美談なんかを揶揄した言葉に「感動ポルノ」という言葉があるけど、どうもポルノというとエロい感じがしてしまうので、「一口感動」という言葉を使いたいと思う。流行らなさそうだけど。

d.hatena.ne.jp

そして一口感動は瞬時に消費されていく。一週間後まで残るようなものは皆無である。

SNSでシェアされていく一口感動

感動したらシェアの欺瞞

FacebookでもTwitterでもいいのだけど、たまーに「感動したらシェア!」というようなのが流れていたりする。
そういう記事というのは往々にして「【感動】○○と△△の意外な関係【号泣】」なんて感じのお涙押しつけなタイトルがついていて、涙も引っ込むわいと思う。
あと、Facebookのそういうアカウントって後々にスパムのアカウントになったりするから要注意。いいねとかしないようにね!

そもそも「感動したらシェア」ってなんなんだろう。そんな余計なことことわざわざ言わなくてもいいだろうに。
手法としては不幸の手紙の頃からあんまり変わってない。

「卒業式で泣かないと 冷たい人と言われそう」なんて歌があったけれど、みんながみんなで「冷たい人と思われたくない」と思っている。みんなが感動しているのだから、感動しなくては!
そんな「私も感動したんだから、あなたも感動するでしょ?」という空気感がとてもとてもキモチワルイのである。

感動ヤクザの取り立て

某タレントが、某レスリング選手が銀メダルに終わった時の号泣を「白けてしまった」と発言したことが一時話題になった。
個人的には白けたとしてもわざわざ言うことないなあと思う。あまり賛同はしない発言ではある。

しかし、それを取り上げて、人格を否定するようにして叩こうとする風潮にはもっと賛同しない。いや、きっぱりと反対したい。
人がそれにどんな感想を抱こうと勝手である。それを表明することも勝手である。また、それに対しての評論に関しても自由であるべきだけど、人格を否定するのはいけないだろうに。

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空気を読まなければ叩かれるのである。空気を読め、というのは一口感動と非常に親和性が高い。
もはやヤクザである。感動の取り立てだ。「お前、感動しなかったな?どうなるかわかってんな?」というわけだ。

ちなみに、そういうのってワイドショーの十八番だと思っていたのだけど、普段は「マスゴミ」とか言っているような2ちゃんねるまとめが煽っているのがなかなか興味深いのだけど。

コンテンツの消費速度が上がっていると言われるけど、本当に感動するエピソードならゆっくり味わえばいいのである。

*1:誤解なきように言っておけば、もちろん僕は感動するエピソードを否定したいのではない。それを無理矢理に押しつけてくるのが嫌なのである。言ってしまえば、オリンピックでなにが起ころうと僕にはなんの関係もないし、人がそれをどう思おうが関係ない。

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