「1984年」に希望はあるか?

有名な小説だけど実は読んだことがない。だけど話のたとえにあがる本というのがあるものである。
たとえば、三島由紀夫の金閣寺や指輪物語あたりで起こっている気がする。僕は両方読んだことがない。
ジョージ・オーウェル著の「1984年」もそんなカテゴリに入れられる小説である。監視社会であったり、全体主義・監視社会の怖さを語るときに「それじゃビッグ・ブラザーじゃないか」という人の何割が1984年をちゃんと読んだのかは怪しいところだ。

かく言う僕もゴルスタ騒動のときに読んだこともない1984年を引き合いに出した。いや、過去に読んだことはあったのだけど、15%くらい読んで挫折していたのだ。
ゴルスタについて書いた後、なんとなくそれじゃいけない!という気持ちが湧き上がって、Kindle版を購入して読んでみた。

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d=”あらすじ”>あらすじ

1984年、世界の大部分は3つの超大国に分割され、絶えず戦争が起こっている。超大国のひとつであるオセアニアで、主人公ウィンストン・スミスは歴史記録の改竄を行っている。一党独裁のオセアニアで、党の見解に反する記録を新聞や本から消し去っていくのだ。
党は「ビッグ・ブラザー」によって統率されており、「テレスクリーン*1」と呼ばれる監視と政府の宣伝ができる機械によって、国民は日々党を信じ愛するように教育されていく。
自分が改竄していく記録と、自分の過去の記憶に食い違いが生じ、党への疑問を持ってしまったスミスはテレスクリーンから隠れ、日記帳に自分の考えを書き始めるという禁止された行動をとる。さらに同僚のジュリアから愛の告白を受け、これも禁止されている自由恋愛を始めてしまう。

そんな中、スミスはゴールドスタインという元党の重役、現在反逆者…が取りまとめているといわれている反体制組織、ブラザー同盟がバイブルとする禁書を手に入れ、国と党の裏側を知ることになるのだが、秘密警察に囚われ拷問を受けることとなる…

d=”作品が書かれた背景”>作品が書かれた背景

1984年が書かれたのは、第二次大戦終了から間もなくの1947~1948年のことである。日本ではまだGHQの統治が行われた時代だ。
反共政策として有名なマーシャル・プランが動き出した時期であり、アメリカとソ連の覇権国家争いが表面化した頃である。

そんな中で書かれた「1984年」は反共主義の書として利用されてきたようだが、ジョージ・オーウェル本人はイギリス労働党の支持者であり、これを否定している。
党が打ち出す「イングソック」という党のイデオロギーは「English Socialism」から来ており、直訳すれば「イングランド社会主義」ではあるものの、本文中にもあるように「党は、社会主義の運動が本来そのために戦ってきた主義の全てを拒絶し、中傷する」とされている。
つまり「1984年」は社会主義・共産主義への批判ではなく、全体主義への批判…というのが正しいのだ。

d=”1984年に希望はあるか”>「1984年」に希望はあるか?

党の支配というのはものすごいものである。まず、テレスクリーンによる完全な行動の監視と、ニュースピーク*2による思想の統制。
そもそも反抗に使えるような単語を消し去ることで、党への反抗などと言うことを考えさせず、記録をすべて改竄してしまう…という思想への介入をしている。
すべては「権力のために権力を追い求める」ための思想統制であり、党と体制を守るために考えられた仕組みである。

本編は、秘密警察による拷問によってスミスがすべての主張を投げ捨て、党の思想を受け入れて銃殺を待つことで終わる。
しかし、本編の後にある、ニュースピークの解説文がオールドスピークで書かれている。体制が崩壊しない限りオールドスピークは抹消される運命にあるので、体制は崩壊した…と考えるのが、「1984年」の結末の解釈としては主流であるらしい。

しかし、僕にはどうも、そういった解釈をすることができないのである。

プロールは反抗するか?

禁書のなかでは盛んに「プロール*3こそが希望である」という主張がなされている。
支配階級である党内からは反乱は起こらないし、党の仕事を請け負う党外郭(中流層)はテレスクリーンなどで監視されており、反乱の目がない。反乱が起こるのであれば8割の人口を占めるプロールからである…ということだ。

しかし、僕には「1984年」で描かれているプロール像にそのような期待を負わせることができないのである。
そもそも改竄された歴史しか学べず、情報を手に入れることができず、疑いがない。そして現状に満足している…というのが、プロール像である。しかも、秘密警察はプロール達の近くにもいるのである。
少なくとも作中に描かれたプロールの中には、党による支配を打破する力を感じることは難しかった。

ゴールドスタインは実在するか?

そもそも、禁書を書いたとされるゴールドスタインが実在するのかもわからないのである。
党の敵対意識を一心に向けられるゴールドスタインであるが、その実在を証明するものがなければ、本人が登場するわけでもない。
歴史をいとも簡単に捏造してしまう党が主張する敵が実在すると考える方が不自然なのではないかと思える。

人々の敬愛を一手に引き受けるビッグ・ブラザー、その宿敵としてでっち上げられるゴールドスタイン。いかにもありそうな話だ。
そもそもゴールドスタインの実在を主張しているのも党に関連する人々だけだ。

さらに禁書の入手ルートとなったオブライエンはガチガチの党の人間であると言うことからも、ブラザー同盟、そしてゴールドスタインが執筆した禁書なるものも、党に反する思想の者を誘い出すための罠として、党が作成したものなのではないかと思える。

この仮説が正しいとすれば「プロールに希望がある」と書いたのは党自身であるということになる。
いかにもスケープゴートであるゴールドスタインが言いそうなことを、党が禁書に書いたのである…というのが僕なりの解釈だ。

結論として、「1984年」に希望はない。と思う。
あの解説文がオールドスピークで書かれているのは、ただ単にニュースピークへの移行に失敗したからではないか。
また、あの解説文が党の支配体制の崩壊を意味するのだとしても、それは党内もしくは党外郭由来のものであり、新しい体制でも1984年当時よりは少しまともになった…くらいのものだと思う。

日本がこうならないという確証は?

前述したとおり、この本は全体主義への批判として書かれたものである。
さて、この全体主義的な状態に現代日本がならない…という確証はあるのだろうか。

監視社会を望んでいる人というのはあまり多くないと思う。いや、僕がそう思っているだけなのかもしれない。きな臭い話はいくらでもある。
少なくともテレスクリーンが導入されたら、DMMは潰れるだろう。部屋の中での行動はあまり見られたいものではない。

しかし、エドワード・スノーデンによる告発・暴露があったように、近い将来テレスクリーンが導入されるのでは…?と思いたくなるような事象がいろいろと起きているのは事実である*4

また、ゴルスタ騒動の時も強権的な運営に対して「運営様」などといってはやし立てる層もかなりの数存在しており、それがゴルスタ運営を暴走させたのでは…?とも思える。
「権力の暴走」なんて言うとなんだかトンデモブログ扱いをされそうだけど、少なくともごく小さなコミュニティーの中ではいくらでも起こりうることなのである。そしてそれが国単位で起こらないという確証なんて実はどこにもない。
例えば現在フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領が行っていること*5を見れば、いかに力を持った人間が暴走しやすいかは想像に難くないだろう。

1948年の小説からの警告を、僕らはまだ受け取れていないのかもしれない。

*1:プロパガンダ映像や音声を流すと同時に、監視にも使われる機器。常に稼働しており電源を切ることができない。テレビと監視カメラが一体化したような機械である。

*2:実在の英語を新しく置き換える英語。語彙を極端に減らすことが目的である。ちなみに実在する英語は「オールドスピーク」と称される。

*3:プロレタリアから来たニュースピーク。意味合いとしては「労働階級」あたりだろうか。

*4:日本でもだいぶお粗末ではあるものの、こういった事例が報道されている。大分県警が隠しカメラ、設置目的の詳細は明かさず – 朝日新聞デジタルたぶん、これ以外にも起こっていることだろう

*5:ドゥテルテ大統領下のフィリピン麻薬戦争、死者の山に口閉ざす人々 – ニューズウィーク日本版

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