いつからかハリー・ポッターに冷めた話

小学生の頃、僕は確かにポッタリアン(すっげえ死語)であった。
確か1年生のクリスマス、母親と祖母からのプレゼントがハリー・ポッターの1~3巻だった。夢中で読んだ記憶がある。
4作目も楽しみに読んだ記憶があるし、6作目の内容について中学時代の友人と話した覚えもある。

映画だって2作目は2回見に行くほどハマったし、5作目まで公開日当日に見に行っていたはずだ。
中学の前半くらいまでは確かにハリー・ポッターを楽しんでいた。

しかし、映画の6,7作目は観にいっていないし、テレビで放映されているのは知っているがまったく見ていない。
USJにもまったく興味がわかない。小さい頃なら親にせがんで連れて行ってもらったであろうに。

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最終巻で冷めた

最終巻を書店で予約した、発売日取りに行った、夜遅くまで読んだ…だけど、正直に言えば途中からは惰性で読んでいた。
足かけ7年ほど追いかけた作品の最終巻を、こんな心境で読むとは…と自分でも信じられなかった。

その次の日には読み終わったはずなのだけど、その感想は驚くほど無残であった。

伏線を少しは…

最終巻とその直前での話の広げ方がすごかった。それがまず第一点。

それまでに登場していなかった最強の杖なんてものを登場させるし、吟遊詩人ビードルなんてのも登場させる。ずいぶん都合のいい展開だなあと思ってしまった。

それまでのハリー・ポッターシリーズというのはそれとなく会話の中に出てきた人物が何巻か後に登場したりして、それに気がつくと少し誇らしい気分になったものである。
それがいきなりの重要アイテムの登場。これにはかなりがっかりであった。

伏線の回収なんて1冊の小説でもしっかりとできない場合が多いのに、シリーズ通して伏線を回収しろ!…なんて酷な話だ。
だけど裏切られた気分を拭えなかったのである。

ケンカ疲れ

ハリー・ポッターは3巻以降絶対に誰かが大げんかしている。3巻ではハーマイオニー、4巻ではロンとの関係が気まずくなったとき、5巻ではハリーが気まずくなるのかな…と思ったらもうあの有様。ダンブルドアに見てもらえない!ということでブチ切れ。
まあ、そこまでは予想通りだったんだけど、その後も延々と誰かが誰かにぶち切れている。

最後には仲良しこよしで終わるのだけど、あんなにケンカのシーンを読み続けるのは、僕にとっては苦痛になっていたのだ。

最終巻でもケンカは収まることなく、もうやりたい放題。君ら17歳なんだからもうちょっと大人になれよ!と思ったものだ。

あとがきでぶっ飛ばされた

こんな感じでハリー・ポッターに疲れていたのだけど、最後の最後ですべてどうでもいいやーと思わせてくれたのは日本語訳者の松岡佑子女史である。
ハリーのセリフを引用して「一生分の厄介を味わった」との暴言。そして次に翻訳する本の宣伝。人の本を翻訳しておいてそのあとがきはないだろう…

ちなみに、そこまでして宣伝された「コニー・ライオンハートシリーズ」の本は2巻以降はAmazonのレビューすらないという状況。やらかしましたなあ。

もう一度読んでみようか

そんなこんなで、ハリー・ポッターに対する情熱は一気に消えてしまったのである。新しい映画もやるようだけど、まったく食指が動かない。
もしかしたらもう一度読んでみたら何か変わるんだろうか。少しは英語を読めるようになったし、今度は英語版で読んだらいいのだろうか…

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